「生まれつき」は、どこまで変えられるのか?
科学は、すでにその問いに手を伸ばしている。
遺伝子編集という名の“人間の改変”が可能となった今、
わたしたちは、どこまでを「自分の選択」と呼べるのか。
はじめに:生まれながらの“わたし”を操作する時代
「それって、生まれつき?」
これまで当たり前に交わされてきた会話の中に、人類は“操作不能な前提”を共有してきた。
けれど、2025年の今、すでにその常識は揺らいでいる。
CRISPR(クリスパー)と呼ばれる遺伝子編集技術の登場により、
**ヒトの性質、体質、知能、感情までも“書き換え可能”**になりつつあるのだ。
これまで「変えられなかったもの」が、変えられる。
それは進歩か、それとも傲慢か。
今回は、「遺伝子編集は人間の運命を変えうるのか?」という問いを軸に、
バイオテクノロジーが切り拓く未来とその倫理に迫る。
CRISPRとは何か──遺伝子を“精密に書き換える”技術

まず押さえておきたいのが、CRISPRの驚異的な精度だ。
従来の遺伝子操作は、あくまで「大雑把な改変」にとどまっていた。
しかしCRISPRは、まるで**“ワープロのカーソル”のように、特定のDNA部分をピンポイントで編集**できる。
たとえば…
- 遺伝性疾患の原因となる遺伝子だけを修正
- 胎児の段階で「知能に関わる因子」だけを活性化
- 肌の色や身長といった表現型の“調整”
これはもはや、治療ではなく設計である。
どこまでが“治療”で、どこからが“操作”か?
現代の医療倫理においては、「治療」と「強化(enhancement)」は明確に区別される。
- 治療:欠損や病気を正常な状態に戻す行為
- 強化:もともと健康な状態に“改良”を加える行為
遺伝子編集が「病気を防ぐ」レベルに留まっているうちは、まだ倫理的な正当性が保たれる。
しかし──
- 健康な人間の知能を“さらに高める”
- 感情の制御を“理性的に再設計する”
- 子どもが将来苦労しないように、“性格”を穏やかにする
こうした編集が一般化すれば、**“人間のデザイン競争”**が始まる。
このラインを越えた時、遺伝子編集は“運命の改ざん”となる。
実際にあった「デザイナーベビー」事件

2018年、中国で科学者が世界初の遺伝子編集ベビーを生んだとして世界中に衝撃が走った。
その目的は「HIV耐性を持つようにすること」だったが、
この行為は「生命倫理違反」として世界的に非難された。
重要なのは、“この技術はすでに可能だ”という事実だ。
つまり、法的・倫理的制限がなければ、ヒトの設計はすぐにでも実行されうる。
運命は、もう変えられる段階にある。
「自由意志」はどこへ行くのか?
この問いは極めて根本的だ。
わたしたちは、自分のことを“自分の意志”で選択していると思っている。
だが──
- 性格も
- 知能も
- ストレス耐性も
それらがすべて、生まれた時点で編集されていたとしたら?
「努力」や「意思決定」が、あらかじめ設計されたDNAの上で展開されるのだとしたら?
それでもなお、私たちはそれを“自分の選択”と呼べるのだろうか?
人間の設計図を書き換えるということ
この議論の最終地点は、人間の定義そのものだ。
遺伝子編集によって可能になるのは、もはや医学的介入ではない。
それは、「ヒトとは何か」を再定義する行為だ。
- 進化は、自然のものから人工のものへ
- 特性の獲得は、偶然から意図的な選択へ
- そして、運命は“授かるもの”から“デザインするもの”へ
この流れは止められない。
だからこそ、どこまでを許容するかを、今のうちに問う必要がある。
結論:「選べる運命」は本当に幸福か?

未来のある日、「この子の性格をもう少し穏やかにしておきたい」と親が思ったとする。
それは愛か、支配か。
「努力しなくても成功するように知能指数を強化したい」と思ったとき、
それは応援か、操作か。
選べることは、必ずしも自由ではない。
それは“自己責任の強化”でもあり、“設計者の意図”への従属でもある。
運命を変えられる時代に、
わたしたちは「変えない」という選択も、同じ重さで語れるだろうか。