鏡を見つめるとき、私たちは本当に“自分”を見ているのでしょうか。
そこに映るのは、光の反射としての肉体であり、同時に、観察しているもう一人の私でもあります。
では――
その「見ている私」は、一体どこに存在しているのでしょうか。
脳の中か、心の奥か、それとも鏡の向こう側なのか。
観察者という謎
心理学では、人間の意識を「観察者と対象の分離」で説明します。
私たちは常に“自分を見ている自分”を内側に抱え、その距離が「自己認識」を生み出します。
この観察構造は、脳科学的には前頭前野のメタ認知機能によるものとされています。
しかし、観察者を観察することはできません。
いくら視点を入れ替えても、“見ている私”そのものには辿り着けない。
意識を光に例えるなら、その光は自分自身を照らすことができないのです。

量子の視点から見る“観察”
量子力学の世界では、観測行為が結果を変えるという「観測問題」が存在します。
電子は観測されるまでは波として広がり、観測によって粒として確定する――
この現象を人間の意識に重ねる研究者も少なくありません。
もし“私”という存在が、観測によって成立しているのだとしたら、「観察者」と「世界」は分離していないのかもしれません。
私たちは鏡を覗き込むのではなく、鏡そのものの一部として存在しているのです。

鏡の比喩と東洋思想
東洋哲学では、心を「鏡」にたとえる教えが数多く存在します。
禅では「心とは映すものにとらわれぬ鏡である」とされ、ヨーガでは観察者を“プルシャ(純粋意識)”と呼びます。
これらはすべて、観察する“主体”と観察される“現象”を一体のものとして捉える思想です。
私たちが「見る」瞬間に、世界は同時に「見られるもの」へと変化する。
鏡の向こうとこちらは、もともと分かれていなかったのかもしれません。

“私”という像の消えるとき
瞑想の深い状態や臨死体験の記録では、「自分を見ている私が消えた」「境界がなくなった」と語られます。
それは、観察者と対象の区別が一時的に失われた状態――
“自己という鏡像が消える瞬間”です。
科学はまだこの体験を完全に説明できません。
しかし、その沈黙の中にこそ、「見ること」と「存在すること」が重なる一点があるのかもしれません。
――鏡の向こうにいるのは、いつだってこちら側の私なのです。

