かつて、聖人の身体に刻まれたとされるスティグマータ(聖痕)は、神が人に触れた証と呼ばれた。
しかし、その傷口を調べた医師たちは、「再現不能な自然現象」と記す以外になかったという。
21世紀の科学が進歩した今も、原因は特定されていない。
奇跡は本当に神の印か、それとも人間の心が生み出す“形なき叫び”なのか――。
封印された記録
1930年代、イタリア南部で起きた「ロザリア事件」は、今も医学界に残る未解明の症例とされる。
修道女ロザリアの手に突如、十字の裂傷が現れ、血がにじみ続けたという。
医師団が触診したが、傷は皮膚に浅く、内部出血も感染反応も見られなかった。
やがて教会はこの記録を封印扱いにし、詳細な検体資料も行方不明になった。
奇跡の記録は、最も精密に観測された“不可視の現象”として、今なお研究者たちを翻弄している。

科学の沈黙
生理学では、極度のストレスやトランス状態が自己催眠性出血反応を引き起こすことがあるとされる。
だが、聖痕の多くは外傷性ではなく、「切る意志が存在しない」状態で発生している。
脳の扁桃体や自律神経の異常放電、潜在意識による局所血管拡張……。
いずれも“説明の試み”であり、決定的な証拠はない。
科学が沈黙するのは、証拠がないからではなく、観測が及ばないからだ。

奇跡の構造
スティグマータは神話ではなく、観測の問題かもしれない。
つまり、「観る者」が奇跡を定義する。
同じ傷でも、信仰者には神の証、懐疑者には心理的投影として映る。
――奇跡とは、心と現実が交差する座標。
その座標が人間の意識によって動く限り、奇跡は決して再現できない。

終わらない聖痕
現代でも、世界のいくつかの地域で「小規模な聖痕報告」は続いている。
それらの多くはSNS上で拡散され、やがて懐疑と嘲笑に飲み込まれる。
だが、もし“信じること”そのものが、観測を成立させる鍵だったとしたら――?
信仰が途絶える時、奇跡はその存在理由を失う。
そして静かに、皮膚の下で消えていく。

